「ニートのあした」宣言

プロフィール

ニートはジャズ - 作品集


ニートは、強制労働社会に請求書を おくりつけます。 しごとを わけてやるから、カネを わけろ!

詰んでいるから、ちゃぶ台をひっくりかえそう

きのうはいろんなことを はなしました。


話題になったことの一つは、もしあのときに学校に行ってれば、ということでした。あるいは、学校に行かなくなってなければ、ということ。それは ありえたかもしれない選択として。または、なんらかの偶然が偶然であったこととして、べつのいまを想像したらどうだろう。そんな問いです。


帰りの電車のなかでそれについて考えながら、かつて書いたmixi日記を思い出しました。まず、太田昌国の本への感想文です。

『「拉致」異論』への異論
2008年01月04日


去年読んだ中で一番良かったのがこの本。っていうか最後まで読んだ数少ない本の一つ。ネットでタダで読めるのが混じってるけどね。


http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/index.html


ただ、違和感を持ったのが、帰国事業などに絡んで、北朝鮮を「美化」していた左翼への(自己)批判である。


まあ実際問題として北朝鮮が当時からバラ色の社会ではなかったのはその通りだろう。けども、帰国した人たちは、現に存在する国家としての北朝鮮を本気で信じていたんだろうか?


そうだとしたら、彼らは「騙された」被害者ということになるし、北朝鮮を地上の楽園であるかのように描いた小田実などは糾弾されるべきだということになるだろう。


実際にどうだったかということは今さら検証のしようがないかもしれないが、僕は違うと思う。そうじゃなくて、「帰国」とは、あり得るかもしれない未来へのプロジェクトに参加するということだったんじゃないだろうか。


そういうレベルまで想定すると、太田昌国の批判はまだ甘いと思う。実体としての北朝鮮(とそれを賛美した知識人)を批判することは今となっては簡単だけど、実体のないフィクションだが、それを自分が現実にするのだというプロジェクトとしての北朝鮮を批判するのは難しい。


前者はすでに結果の出た過去の総括にすぎないのに対して、後者は今この時に私がいかに行動するのかという問いを突きつけるからだ。


なんちゃって。


ってなことを、『パッチギ! Love&Peace』を再見しながら考えた。『パッチギ!』、いいですね。寅さん並みにシリーズ化してほしい。


いきなりネタバレですが、『パッチギ!』第一作のラストでは、ある在日の青年が朝鮮に「帰る」という選択をしたのかどうかということが、あいまいなままになっています。わたしはそういう印象を受けました。そうではない、という見方もあるということは、ついさいきんになって知りました。


それはともかくとして、以下の日記についても思い出しました。

パラレルワールドの倫理
2007年11月07日


バブルへGO!』見ますた。


ことあるごとに万札を渡そうとするバブルの人たち面白かった。


映画としてはつまんねかったけど、以前からブログで書こうと思ってたテーマとの関連でネタにできるかも。


子どものころ見た『ドラえもん』の映画版で、こういうのがあった。


のび太一行がピンチに陥り、ジャイアンその他関係者は敵の手に落ちてしまうんだけど、ドラえもんのび太くんだけは助かって家に帰る。


この時、のび太くんのすばらしいトンチで、究極の解決策が提案される。


もしもボックス


あの、公衆電話みたいな機械で、「もしも〜だったら」って言うと無条件で現実化する、その他のグッズの存在意義を全部キャンセルしかねないような、例のアレですね。


それで何ごともなかったかのような日常に帰るのでした。


……だと、映画が30分で終わっちゃうので、のび太くんはさらに考える。


もしもボックス」で分岐する以前の、もう一方のジャイアンたちはどうなっちゃうんだろう。


ドラえもんが解説します。「もしもボックス」を使った時点で、「あっち」の世界と「こっち」の世界に分かれる。だから、「あっち」にもジャイアンスネ夫はいて、悲惨な目にあっている。けど、「こっち」の世界はそれとは独立したもので、平和な日常が回復し、みんな元気に暮らし続ける。


そんなんじゃ「あっち」のジャイアンたちがかわいそう、と思ったのび太くんは。。。


という話でした。うろ覚えだけど。


史的唯物論は、ハッピーエンドを拒否します。


「めでたし、めでたし」という結末に張り付く阿鼻叫喚に耳をそばだてます。





っていうような話を、今度ブログに書きたいんだけど、まだ考えがまとまらないので書けない。


まだ まとまってません。
けれども、けれども、けれども、何ごとかを言いたい。叫びたい。それが何なのか、まだよくわからない。とにかく、わたしは学校がきらいです。


それはともかくとして、わたしがこれまで『イムジン河』として知っていた歌について、ふくざつな経緯があり、いろいろなバージョンがあり、それらについてネットでちょっと検索するだけでも さまざまな説があるということを知りました。













http://www.youtube.com/results?search_type=&search_query=%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%B3%E6%B1%9F&aq=0r&oq=%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%81%93


http://www.youtube.com/results?search_type=&search_query=%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%B3&aq=f


http://www.youtube.com/results?search_type=&search_query=%E8%87%A8%E6%B4%A5%E6%B1%9F&aq=f


http://www.youtube.com/results?search_type=&search_query=%EB%A6%BC%EC%A7%84%EA%B0%95&aq=f




http://www.google.co.jp/search?hl=en&safe=off&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&hs=Jw0&num=100&newwindow=1&q=%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%B3&btnG=Search&lr=


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%B3%E6%B2%B3


http://www.kinyobi.co.jp/blog/?p=1539