「ニートのあした」宣言

プロフィール

ニートはジャズ - 作品集


ニートは、強制労働社会に請求書を おくりつけます。 しごとを わけてやるから、カネを わけろ!

マジョリティには名前がない、の補足

多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080825/1219629301

少数派には名前がある(ベジタリアンをめぐって)。
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080712/1215796251


共産主義の精神で、かってに↑を補足します。




7年前にやった大学の宿題より抜粋。

 Ackerたち*1によれば、伝統的な客観性の概念は、研究者に調査活動から自らのアイデンティティーを引き離すことを要求します。しかし、以下のような問いがなされなければなりません:そのような「分離」は実際に可能なものなのか? 「『アルキメデスの』点——つまり、社会におけるいかなる特定の位置とも無縁な点」*2にあると称することができるのは誰なのか?
 この問題について、Dyerの「白人であること」の普通-性(normativity)についての論文*3は興味深いものです。彼によれば、支配的言説は白人をあたかも「人種をもたない」(non-raced)*4かのように見せかけます。有色人種が「自らの人種の代表としてのみ語ることができる」のにたいして、白人は「人類の共通性を代表して語る」*5権力をもっているからです。これは、白人が自分たちについて語らないということは意味しません。Dyerは言います:

 実際、白人はたいていはただ白人についてのみ語る。ただ、私たち[白人]はそれを「人間」一般として表現するのである。研究が……繰り返し示すところによれば、西洋の表象において白人は圧倒的にまた不釣合いに支配的であり、中心的で精巧な役割にあり、とりわけ標準として、普通のものとして、基準として位置づけられている。白人は表象のいたるところにいる。しかしまさにこのことゆえに、そして彼らが標準として位置づけられているために、彼らは自分たちに対して白人としてではなく様々な形でジェンダーや階級、セクシュアリティー、能力を与えられた人間として表象されるように思われる。言い換えれば、人種的表象のレベルにおいては、白人はある特定の人種ではなく、ただ人類(the human race)なのである。*6

Dyerのここでの関心は人種にありますが、私たちはこの議論をジェンダーや階級といった他のカテゴリーにも応用できるでしょう。支配的なグループはあたかも自分たちのアイデンティティーが重要ではないかのようにふるまう権力をもっています。スケッグスの言葉で言えば、「知における暗黙の標準化する効果(normalizing effect)は、あるグループの経験を全てのグループに属するものと決めつけることによって働く」*7のです。 だとすれば、研究者が自分のことについて語らないことは問題に思えてきます。
 「フェミニストの視点」(feminist standpoint)に立つ理論家たちによれば、支配的な社会学者が拠って立つと称する抽象的な客観性は、支配関係の徴候です。スミス*8によれば、支配的な男性社会学者は、いかに抽象的な「客観性」を確保しようとしても、自らの身体的実存から逃れることはできません。彼らの身体の必要は、主に女性の家事労働などによって維持されます。このように、彼らの主体的位置からの「分離」は、支配システムにおいて特定の位置にあって初めて可能になるものです。
 スケッグスは、自らの来歴を語ることによって主体的位置につくのではありません。どのような研究者も、常に既に特定の位置を占めているのです。彼(女)がそれに自覚的であるか否かに関わらず。「私たちがどこにいようが、私たちが誰であろうが、私たちは常に知ることの諸関係(relations of knowing)に包み込まれている」*9とスケッグスは言います。彼女と「アルキメデスの」点にあると称する者たちとの唯一の違いは、彼女が自らの位置について正直であるということです。


10年前にやった宿題より抜粋。

フェミニズムのキーワードに、「家父長制」というものがあります。そのまま読むとお父さんがエライんだぞ、みたいな感じがしますが、お父さんに限らず、男性というグループが女性というグループを支配・抑圧し、そのことで利益を得るようなシステムのことです。この家父長制が一つの独立したシステムであるという考えは、1960年代以降のいわゆる「第二波フェミニスト」たちによって打ち立てられました(って強引な単純化ですよ)。これは一つには、それまでのサヨク運動で強大な力をもっていたマルクス主義が、男性による女性の支配は資本による労働者の支配の副産物にすぎない、と見なしていたことに抵抗する必要から使われるようになった概念でした。しかし、「第二波フェミニスト」たちはマルクス主義の経済還元主義を退けたまではよかったのですが、そうする中で、別の形の還元主義に陥ってしまいました。彼女たちは、女性の抑圧の源を男性VS女性という不変の対立に求め、生物学的な差異に還元してしまったのです。もし性的な差異が唯一のファクターなのだとすれば、全ての女性は同じ利害をもっており、また全ての男性と対立していることになります。
 このような見方の中で忘れられているのは、女性内部にある差異の存在です。ちょうどマルクス主義者が同じ階級に属する男女の差異を見逃したように、白人フェミニストもまた異なる人種に属する女性の利害が対立しうるのだということを見落としていたのです。もちろん、なかには人種的な差異に気付いていた理論家もいましたが、そのような差異は性別に比べると重要ではないと見なされていました。「全ての女性が共有する本質的な女性性」*10が強調されました。ここでは、マルクス主義者の過ちが繰り返されていました。マルクス主義者が男性労働者だけから「労働者」の概念を一般化したように、

「女性としての」女性に注目することは、ただ一つのグループの女性だけに焦点を絞ることだった——つまり、西欧産業化国の白人中産階級の女性にである。だから、[女性の間の差異は共通点よりも重要ではないということは]、女性が女性として共有していることについて語ることではなかった。それはむしろ、ある一つのグループの女性の状態を全ての女性の状態と混同することであった。*11

このような考え方はリッチが「唯論(ゆいはくろん)」(white solipsism)と呼んだ思考パターンに基づいていました。「唯白論」とは、「白人であることがあたかも全世界を説明しているかのように考え、想像し、語る」*12傾向のことです。それは「白人以外の経験や存在を決して貴重であり重要であるとは考えない視野狭窄症(しやきょうさくしょう)」*13とも言えます。結果として、フェミニズム運動において黒人女性やマイノリティー女性は「見えない存在」の位置に置かれることになりました。
 非白人の経験を軽視する方法の一つは、「足し算分析」(additive analysis)*14というものでした。このアプローチでは、人種差別、階級差別、性差別は互いに独立した別個の存在であると見なされます。まるで、「性プラス人種プラス階級」みたいに考えるわけです。このような考え方は、これらのファクターが互いに影響しあっているということ、そしてだから黒人女性は性差別を白人女性とは異なる形で、人種差別を黒人男性とは異なる形で経験する、ということを見逃します。そして、「黒人女性は、黒人として一つの形式の抑圧を経験し(←黒人男性が経験するのと同じもの)、女性としてまた別の形式の抑圧を経験する(←白人女性が経験するのと同じもの)」*15と考えられるのです。これでは、黒人女性に対する抑圧はそれ自体として分析されることはなく、黒人男性と白人女性との連想によって扱われるのみです。
 もちろん、黒人女性と白人女性両方が性差別を経験し、黒人女性と黒人男性両方が人種差別を経験するということは疑いがありません。しかしだからと言って、彼女たちが同じ類の性差別/人種差別を経験するとは言えないでしょう。というのも、モハンティーが言うように、「ジェンダーと人種は相関的な用語である」*16からです。ある女性がどのように性差別を経験するかということは、彼女が人種階層のどこに位置するかに深く関わっています。同じように、彼女の人種差別の経験は彼女が家父長制社会において女性であるという事実に影響されています。黒人女性が経験する抑圧は、白人女性に対する抑圧とも、黒人男性に対する抑圧とも異なります。このことは、黒人女性のおかれた状況を理解するためには、白人女性からの一般化に頼ることはできず、黒人女性自身を見なければならない、ということを意味します。


視野狭窄症」っていう表現をこの文脈で使うのはありえないのだそうです。よくよくかんがえたら、たしかにそうだ。


p.s.
↑の宿題をやったときは知らなかったけど、社会学の古典での「客観性」って、そもそもふくざつなものらしいです。

*1:Acker, J. et al. (1991) ‘Objectivity and Truth: Problems in Doing Feminist Research’, in Fonow, M. M., and Cook, J. A. (eds.) Beyond Methodology: Feminist Scholarship as Lived Research, Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, pp. 133-153.

*2:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, Milton Keynes: Open University Press, 71.

*3:Dyer, R. (2000) ‘The Matter of Whiteness’, in Back, L. and Solomos, J. (eds.), Theories of Race and Racism, London: Routledge, pp. 539-548.

*4:ibid, 539.

*5:ibid.

*6:ibid, 541.

*7:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 19.

*8:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, Milton Keynes: Open University Press.

*9:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 18.

*10:Spelman, E. (1990) Inessential Woman: Problems of exclusion in feminist thought, (London: Women’s Press), ix.

*11:ibid., 3.

*12:quoted in ibid., 116.

*13:ibid.

*14:ibid., 114.

*15:ibid., 122

*16:Mohanty, C.T. (1991) ‘Cartographies of Struggle: Third World Women and the Politics of Feminism’ in Mohanty et al. (eds.) Third World Women and the Politics of Feminism, (Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press), 12.